徳永寺 (三重県伊賀市) 徳川家康の伊賀越え
1582年本能寺の変後、堺から四条畷に移動していた徳川家康は、明智光秀
の落武者狩りを恐れて30数名の家臣と共に、宇治田原~信楽~伊賀~白子
~常滑~岡崎と逃げ帰った<伊賀越え>は家康の最大の危機であったと
いわれている。
その途次にある伊賀徳永寺で一時休憩したとか、宿泊したとかいわれている。
後に、徳永寺に対して葵の紋使用の許しを与え、江戸時代になると、
伊賀藩の藤堂藩主から庇護を受けている。
徳永寺の開創は不詳であるが、戦国時代の1558~72年に現在地に
移ったといわれている。
境内から霊山を望み家康の危機を想像する。
徳永寺には善光寺の一光三尊を勧請し、柘植善光寺とも呼ばれている。
<三重県のお寺一覧>
(1)寺名:徳永寺(とくえいじ)
(2)住所:三重県伊賀市柘植町2318
(3)山号:平庸山 (4)宗派:浄土宗
(5)開創:不詳 (6)中興:西誉崇徳 1558~72年
(7)本尊:阿弥陀如来
(8)その他
1)鐘楼と梵鐘:市指定文化財 江戸時代
2)宝篋印塔:市指定文化財 南北朝時代
3)藤堂藩主代々寄進状:市指定文化財 江戸時代
4)訪問日:2015年5月10日
参道
山門
全景
境内からの霊山
本堂
十王堂(左)善光寺堂(右)
閻魔像
鐘楼
六地蔵と宝篋印塔
の落武者狩りを恐れて30数名の家臣と共に、宇治田原~信楽~伊賀~白子
~常滑~岡崎と逃げ帰った<伊賀越え>は家康の最大の危機であったと
いわれている。
その途次にある伊賀徳永寺で一時休憩したとか、宿泊したとかいわれている。
後に、徳永寺に対して葵の紋使用の許しを与え、江戸時代になると、
伊賀藩の藤堂藩主から庇護を受けている。
徳永寺の開創は不詳であるが、戦国時代の1558~72年に現在地に
移ったといわれている。
境内から霊山を望み家康の危機を想像する。
徳永寺には善光寺の一光三尊を勧請し、柘植善光寺とも呼ばれている。
<三重県のお寺一覧>
(1)寺名:徳永寺(とくえいじ)
(2)住所:三重県伊賀市柘植町2318
(3)山号:平庸山 (4)宗派:浄土宗
(5)開創:不詳 (6)中興:西誉崇徳 1558~72年
(7)本尊:阿弥陀如来
(8)その他
1)鐘楼と梵鐘:市指定文化財 江戸時代
2)宝篋印塔:市指定文化財 南北朝時代
3)藤堂藩主代々寄進状:市指定文化財 江戸時代
4)訪問日:2015年5月10日
参道
山門
全景
境内からの霊山
本堂
十王堂(左)善光寺堂(右)
閻魔像
鐘楼
六地蔵と宝篋印塔