等持院(京都市北区) サツキと青もみじの庭園
2022年6月1日に訪れたサツキの庭園を紹介

西庭



東庭

足利尊氏は1341年等持寺を創建し、2年後現在地に別院北等持寺
を建て、尊氏死後、北等持寺を等持院とし、墓所となった。
応仁の乱で等持寺が焼失し、等持院が本寺となった。
足利尊氏は後醍醐天皇に反逆したとして、江戸時代から特に明治時代
から逆賊扱いされてきたが、戦後の歴史観の変遷を経て再評価される
ようになった。
京都の時代祭で永く室町時代がなかったのもこの事に起因している。
現在の時代祭では室町時代も取り上げられている。
等持院もその影響で戦後まで廃れていたが、現在は復興し尊氏の
霊も安らかな眠りについているだろう。
庭園は東・西の池泉回遊式庭園からなり、夢窓国師の作庭と伝えられ
ているが、実際は江戸時代の作庭と考えられている。
<京都市北区のお寺一覧>
(1)寺名:等持院(とうじいん)
(2)住所:京都市北区等持院北町63
(3)山号:萬年山 (4)宗派:臨済宗天龍寺派
(5)開山:夢窓国師 (6)開基:足利尊氏
(7)開創:1341年 (8)本尊:釈迦牟尼
(9)その他
1)主な伽藍
方丈(本堂):1616年妙心寺から移築
霊光殿:足利歴代将軍の木像、徳川家康像など安置
茶室清漣亭:足利義政好み
2)等持寺絵図:重要文化財
3)方丈障壁画:市指定文化財 江戸時代
豊臣秀吉像(画):市指定文化財 桃山時代
4)庭園:東(心字池)・西(芙蓉池)の池泉回遊式庭園:市指定名勝
5)足利尊氏の墓と伝えられる宝篋印塔
6)水上勉が小僧として修行
7)訪問日:2005年4月12日、2022年6月1日
方丈達磨図
総門
参道
中門
方丈
方丈
西庭
西庭
清漣亭
足利尊氏墓
東庭
東庭
霊光殿

西庭



東庭

足利尊氏は1341年等持寺を創建し、2年後現在地に別院北等持寺
を建て、尊氏死後、北等持寺を等持院とし、墓所となった。
応仁の乱で等持寺が焼失し、等持院が本寺となった。
足利尊氏は後醍醐天皇に反逆したとして、江戸時代から特に明治時代
から逆賊扱いされてきたが、戦後の歴史観の変遷を経て再評価される
ようになった。
京都の時代祭で永く室町時代がなかったのもこの事に起因している。
現在の時代祭では室町時代も取り上げられている。
等持院もその影響で戦後まで廃れていたが、現在は復興し尊氏の
霊も安らかな眠りについているだろう。
庭園は東・西の池泉回遊式庭園からなり、夢窓国師の作庭と伝えられ
ているが、実際は江戸時代の作庭と考えられている。
<京都市北区のお寺一覧>
(1)寺名:等持院(とうじいん)
(2)住所:京都市北区等持院北町63
(3)山号:萬年山 (4)宗派:臨済宗天龍寺派
(5)開山:夢窓国師 (6)開基:足利尊氏
(7)開創:1341年 (8)本尊:釈迦牟尼
(9)その他
1)主な伽藍
方丈(本堂):1616年妙心寺から移築
霊光殿:足利歴代将軍の木像、徳川家康像など安置
茶室清漣亭:足利義政好み
2)等持寺絵図:重要文化財
3)方丈障壁画:市指定文化財 江戸時代
豊臣秀吉像(画):市指定文化財 桃山時代
4)庭園:東(心字池)・西(芙蓉池)の池泉回遊式庭園:市指定名勝
5)足利尊氏の墓と伝えられる宝篋印塔
6)水上勉が小僧として修行
7)訪問日:2005年4月12日、2022年6月1日
方丈達磨図
総門
参道
中門
方丈
方丈
西庭
西庭
清漣亭
足利尊氏墓
東庭
東庭
霊光殿